それ

それを手に入れたら幸せになれると思った。
私はそれのためなら何でもした。
 
最初にそれを見たのは大学に通っているときだった。
私は私を盲信した父と母によって
灰色の勉強生活を今まですごしてきた。
そして何とか一流と呼ばれている大学に入り、
私は私の目標をなくしてしまった。
言わば今まで大学に入るために生きてきたので、
入ったために人生の目標をなくしてしまったのだ。
ずっとがんじがらめに縛られてきたのに、
突然縄を解かれて「さぁ自由にしていい」といわれても
何をすればいいのか。
誰も私を縛るものはなく誰も私の障害にはならず
私は無気力になっていき、せっかく入った学校もたびたび休むようになった。
私は自由のとらわれ人だった。
私はいつも悲しくてむなしかった。 
その不自由を打ち破り、突如私の心を一色に染めてしまったのがそれだった。
それは美しく、美麗でどんな言葉でも言い表せない、
高潔さと豊かさと真の強さを持っていた。
私はそれを見た瞬間からそれのとらわれとなり、
寝てもさめてもそれのことを考えるようになった。
それを見たときから誰もがそれを欲しがるようになり、
何よりすばらしいことにそれを持てばどんな人間でも幸せになれるらしい。
幸せのような気がするのではなくて本当に幸せになれるのだ。
なんてすばらしいことだろう。
私はそれを手に入れたかった。
それのためなら何でもする、と私は自分の心につぶやいたりした。 

今のそれの飼い主は疑心暗鬼で鼻持ちならないいやなやつだった。
それを檻に閉じ込めてそのくせ人に見せびらかし、
それを持っている自分がどんなに偉い人間なのかを人に得々と話して聞かせた。
いつもいらいらして自分から見せるくせに、他人がそれの檻に近づくと
ものすごい勢いで怒鳴ったりした。
誰もがみなそれを自分から奪い取る気なのだと、そう思っているようだった。
それは汚れて、悲し気で、とても不自由そうだった。
私は何度目かそれの飼い主にそれを見せられた時、
それが涙を溜めているのを見て、それを奪い取ることを決心した。
それは閉じ込めたり見せびらかしたりするものではないのだ。
それにはそれの飼い方というものがあるのだ。
それだって、飼い方を知らない今の飼い主よりも、
ちゃんとした飼い方を知っている私の方が良いに決まっている。
私はそれについて何遍も勉強したのだ。 

しかし旨くやらなければならない。
下手に奪って失敗したらそれを手に入れられるどころか
私は泥棒のレッテルを貼られ、一生を棒に振ることになるだろう。
それを泥棒したら殺されても文句は言えないことになっている。
私はそれを手に入れるために大変な苦労をして人生を渡り始めた。
大学から人生の目標がそれになったのだ。
それのためにいろいろと辛いこともあったが、
大学に入るまでの苦しい生活が私を支えた。
人に何を言われても何をされても耐えることのできる根性が私についていた。
するとあの下積みも無駄ではなかったのだ。 

大学を卒業し、会社に入ってそれに逢えなくなっても
私は片時もそれのことを忘れなかった。
社会的信頼を今のうちにつけるのだ。
それを手に入れたらそれの飼い主と裁判で争うことになるかもしれない。
そうなっても勝てるように、強力なバックと信頼を今のうちにつけておくのだ。
私は人の心情を読むのがうまくなり、おべんちゃらを使い、
時には真摯に話を聞き、真剣であるふりをして、
いつも気を抜かず、誰よりも仕事をした。
私は偉くなりすぎないように注意して、敵を作らないように何とか社会をわたり、
恋人ができて、親友が数人できた。 

そしてとうとう私は強力なバックを手に入れ、
本当に信頼できるいくつかの人間と絆を結んだ。
社会的信頼もたいした物だった。
(もう何があっても恐くないぞ)
私は思った。
(今こそ行動の時だ)
それを手に入れる時がついにきたのだ。
私は手始めに飼い主の不正の証拠を巧みに手に入れ、
飼い主を脅してそれを手放すように心圧をかけた。
それでも飼い主がそれを手放さなかったので、
いろいろと嫌がらせを繰り返して飼い主を弱らせていった。
私の悪事に忠告をくれる友達がいたが
私は障害としてその友達を排除した。
恋人も急に様変りして躍起になっている私を心配したが
その行動がうっとしくなり、私は彼女を排除した。
それのためにはどんな事でもすると私は誓ったのだ。
友も恋人もそれの魅力の前には無力だった。 

ついに飼い主が自殺して、私の手元にそれが来るようになった。
私は狂喜した!
これで幸せになれる!
これでしあわせになれる!
そして私は知りすぎている私の友と部下を排除した。 

それを家に招きいれ、私はそっとなでようとそれに声をかけた。
「恐くないよ・・・」
しかしそれは毛を逆立てて私に逆らった。
うなり声を上げて逃げ惑う。
私は混乱しておろおろしてそれをただ見つめた。
それは私を怖がっている。
恐がっている! 

一週間たってもそれは私になつかなかった。
仕方なしに私はそれをある一室に閉じ込めてしばらく様子を見ることにした。
それは悲し気で不幸だった。
私は切なくなって今まで私のやってきたことは何だったのだと怒り狂った。 

もう一ヶ月してもそれは私になつかなかった。 

私はそれがおびえるのが解っていたが
いっつも我慢できずに人を家に招待してはそれを見せびらかした。
ああ、それを魅せられた時の人々の驚きと賞賛!!
なんと心地よい響きだろう!
しかし見せた後に、私はいっつもそのことを急激に後悔して
見せた人間がそれの魅力に衝かれ、いてもたってもいられずに、
それを奪いにくるのではないかと、すざまじく不安になった。 

私は人を遠ざけ、ガードマンも信用しなかったため
家中に警報装置をつけて、それを四六時中見張るようにカメラを設置した。
しかしどうしても快楽の魅力に勝てずに私は人々にそれを見せつづけた。
そのせいでそれは余計に私から遠ざかり、警戒していった。
それはどんどん汚れていった。
どんどん悲し気になっていった。
反対に私はどんどん得意に、どんどん不安になっていった。
見せることを止めることはできなかった。
散歩をせよとそれの飼い方には書いてあったが
散歩なんてもってのほかだ。
今では誰もがそれをねらっているような気がしていっつも不安に陥っていた。
それを持っている自分がとても偉く感じる時もあれば、
それを不幸にしている自分がとても嫌いになったりした。
私は情緒不安定になり、気が狂っているのではないかと人々に言われた。
むしろ狂っていた方が楽だった。
ちょっとでもそれを奪うようなそぶりをした人間を
次々と排除していった。
私はもうとても偉くなっていたので
陰口をたたいても誰も逆らうことはできなかった。
みんなが敵だと感じていた。
誰も信用できなかった。
真実私の味方はいなかったのだ。
みんな表面上で私と付き合い、影で私の心に辟易した。 

それと私の不安定な生活がしばらく続いた。 

そして其の日の朝がきた。
私はふと目を覚まして何かがおかしいことに気がついた、
真紅のカーテンもふかふかのベッドも何もかもいつものとおりだ。
しかし何かがおかしい。何かが狂っている。
あ!あれはだれだ!カーテンの陰に隠れているあいつは誰なのだ!
この屋敷には私以外人間はいないはずだぞ!
私はガバッと飛び起きようとして
ドン!と頭に衝撃を感じた。
とても熱い熱が脳みそから広がって生暖かい水が熱の中心から垂れてきた。
私は目の前の男が煙のふく拳銃を震える手にしているのを見た。
男はつぶやいた。
「『それ』は俺のものだ」
私はゆっくりと沈みながら思った。 
 

それを手に入れれば幸せになれると思っていた。